ザフトさんのブログだよ

自分自身と向き合うためにブログやってます。

「いい人」人生やめます。

わたしはよく人から「いい人だね」「性格いいね」「やさしいね」「勉強できてすごいね」と言われる。言われることじたいはすごく嬉しい。ただ、そんな風に言われる人生はもうやめたい。

 

正直に書く。わたしは今まで、いい人と思われたかった。周りから好かれたかった。嫌われたくない。嫌われるのが怖い。誰かが喜んでくれるなら自分なんてどんな犠牲になってもよかった。卒業アルバムには毎回「やさしい人」の文字があった。嬉しかった。

 

ただ、この生き方は19年間のわたしを苦しめた。

 

他人に嫌われたくないから、やりたくないことも引き受ける。ありがとうと言われるのが嬉しくてつい引き受けてしまう。断ると罪悪感が残る。

ほしいものも、何がしたいかも言えない。言ったあとの反応が怖い。

周りの人から好かれるために「ノー」と言わずに自分を押し殺す。

大切な人が傷つけられた時には、全力で慰めたりするのに自分が傷ついてもなにもしない。

ほんとうの自分が分からずに、他人に合わせて生きていく。

 

わたしはこの19年間、他人の人生を生きていた。他人の言うこと、他人の目、他人の気持ちが最優先だった。自分が傷つきたくないから。自分自身、空っぽだった。

 

自分の人生はどこにあるの?

何で他人の期待を満たすために生きているの?

自分の意志はどこいったの?

 

「子どものころ腹が立ったり、わかってもらえないと感じたり、気持ちが混乱したりしたときは、それを誰に話しましたか?」

身体が「ノー」と言うとき―抑圧された感情の代価

 

話す相手はいなかった。親には話せなかった。一度泣いているところを馬鹿にされてから話すことも、マイナスの感情を見せることもやめた。

 

「子供のころ、悲しかったり、混乱したり、怒りを感じたりしたとき、それを話す相手がいましたか?———その相手があなたにそういう感情を起こさせた張本人だったとしても、話すことが出来ましたか?」

身体が「ノー」と言うとき―抑圧された感情の代価

 

いなかったし、話すこともできなかった。張本人に言われてそういう感情が起きて傷ついているのに、その事実を言ったら相手が傷つくと思って言わなかった。どこまでも利他的だった。他人優先。いつも、辛い、悲しい、怒りの感情は自分の心の中におさえつけていた。

 

 

彼女(=レイノー病で亡くなった女性)の身の安全は、いかに他人の気持ちを読み取るかにかかっていた。自分の気持ちを考えている余裕はなかった。そして、子供のころ押し付けられていた役割からいつまでも抜け出すことができず、人にいたわられ、話に耳を傾けてもらい、気にかけてもらう権利が自分にもあるということに気づかずにきたのである。

身体が「ノー」と言うとき―抑圧された感情の代価

 

まさにこの通りの人生だった。

 

小学校時代は一人の友達に行動が支配されていた。言いなりになっていた。相手の言うことが絶対だった。のちにその人は問題を起こし転校させられた。

なぜか一つ上の学年の一人に「バカ」と言い続けられたこともあった。プールの時間は地獄だった。プールサイドに座っているときにもしつこくバカにされてゴーグルをつけたまま泣いた。もちろんこのことは先生にも、友達にも、親にも言わずに、自分の心の中にしまった。

高学年にもなるとターゲットがころころ変わるいじめにもあった。小学生にして自己啓発本を大量に読み始めたのもこのころだ。

 

 

中学校時代になると、他人優先の行動はどんどんエスカレートしていった。相手の宿題をやってあげた。断ることができなかった。「ノー」と言えなかった。

なるべく目立たずに、だれのことも傷つけないように、そして嫌われないように自分を押し殺していた。

バレー部を辞めるのにも9ヵ月かかった。本当は入部から2ヶ月の時点でやめたかった。でも、やめたらほかの部員に何と言われるか怖かった。他人のことしか考えていなかった。毎日泣きながら帰って「顔しんでるよ」と言われても自分のことは放置だった。顧問に「裏切者」「責任をとらないやつだ」とまで言われたのに。

 

 

高校時代は人に恵まれて楽しかった。でも、自分をないがしろにして他人を一番に考える癖はなかなか抜けなかった。高校時代の友人は、私のことをたくさん褒めてくれた。

「いい人」と言われるのがうれしかった。でもずっといい人でいなければいけないというプレッシャーを感じていた。「やさしいね」といわれれば、自分のことを犠牲にしてまで他人に尽くさなければならない。「頭いいね」「次も一番でしょ」と言われれば、次のテストも高得点をとって一番でなければならない。そうしなければ嫌われる。人が離れていく。そんな気がした。

だから、受験が近づいているのに定期テスト勉強を手抜きにすることができなかった。いつも高得点をとっている自分じゃなくなることで他人から何と思われるのか恐怖でならなかった。結果的に少し手を抜くことができて、一番じゃなかったが逆に安心した。順位が変わっても態度を変えるような人はいないということに気づいた。

勉強に関しては、「(私)には一番頭いい大学行ってほしいな」なんて言われたときには、体に重い何かがのしかかっているようだった。私は誰のために勉強しているの?

 

 

そして大学生になった今、私は今までの生き方を変える2冊の本にであった。

 

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

 

われわれは「他者の期待を満たすために生きているのではない」のです。

あなたは他者の期待を満たすために生きているのではないし、わたしも他者の期待を満たすために生きているのではない。他者の期待など満たす必要はないのです。

他者からの承認を認め、他者からの評価ばかりを気にしていると、最終的には他者の人生を生きることになります。

 

まさに今まで生きていた生き方。そして、自分の人生を自由に生きるには、

 

すなわち、「自由とは、他者から嫌われることである」と。

他者の評価を気にかけず、他者から嫌われることを怖れず、承認されないかもしれないというコストを支払わないかぎり、自分の生き方を貫くことはできない。つまり、自由になれないのです。

 

 嫌われることを怖れるなというところは納得できなかった時期もあったが、今になってやっと分かる気がした。他人の要求を満たそうと生きる生き方がどんなに苦しいものか。それからすこし解放されたときの肩の荷が下りる感覚。

 なんだかもやもやしたときはこの本を人生の辞書代わりに使う。

 

 

もう一つ。

 

身体が「ノー」と言うとき―抑圧された感情の代価

身体が「ノー」と言うとき―抑圧された感情の代価

 

「いやだ!」「ノー!」と言わなければ、結局、身体がわたしたちの代わりに「ノー」と言い始めるだろう。

 患者たちの語りから垣間見える、無力でストレスに満ちた子供時代。周囲に自分を合わせ、生き延びるために無意識にとった戦略が病気の元となるとは……。

家庭・社会環境がもたらす心理的ストレスは病気の大きな要因の一つだが、本書は家庭や職場といった外的条件に潜む問題もさることながら、そうした環境の中 で自分のありのままの感情を表現することが抑圧されるとどうなるか、という点に重点を置いている。著者によれば、あまりにも協調的な「いい人」や頑張り屋 さんほど、自己免疫疾患にかかりやすいという。日本人にはぐさりとくる指摘だろう。

しっかりした医学的知見と心理学的的洞察に基づいた説得力のある一書。

身体が「ノー」と言うとき―抑圧された感情の代価

 
自己免疫疾患。(免疫という体の防衛システムがなぜが自分自身を攻撃してしまうこと。原因は不明。)
わたしが高校3年生のとき発症した病気の原因ではないかとされている。もともとはストレスが原因ではないかと言われていたけれど。自己免疫疾患は結果ではあって、原因ではないと思っている。
 
この本では、自己免疫疾患やがんなどの病気になった患者にインタビューをして、成長過程で無意識に抑圧していた感情が病気を引き起こしているのかをさぐるもの。
 
「こころとからだはつながっている」そんな話を保健の授業で聞いたことがある。
 
他人を優先して怒ることもせずに自分をおさえつけて傷つけていた。それと同じように、免疫システムが本来なら敵を攻撃するはずなのに、自己と非自己を認識できず、自分自身を攻撃してしまう。
いままで心で「ノー」と言えなかったから最終的には身体が「ノー」と言いはじめたのかもしれない。
 
このような自己免疫疾患やがんにかかる患者には、共通点がみられる。
  • 感情を適切に処理できない。表現することもできない。
  • 自分の要求は満たさずに、他者の要求ばかり満たすことばかり考える傾向がある。他者への義務感。
  • 怒りを抑圧する。
  • 厳しすぎる自己評価。
  • 完璧主義。
 
原因が明らかでないにせよ、無意識に、自分を守るために身につけた生き方が病気を引き起こす。そんな可能性はなくはない。なんて悲しいことなんだろう。
 
 
 
でも私はこの2冊の本を読んで、もういい人をやめようと思った。
 
他人の人生じゃなくて、自分の人生を生きたい。
 
自由になりたい。
 
嫌われることなんてどうでもいい。関係性が変わるだけで、私の人生には影響しない。
 
もっとちゃんと「ノー!」と言えるようにならなきゃだめだ。
 
自分の心と自分の身体を守るために。
 
 
 
おわり